この春、地元の公立中学に進学する下の子の制服を受け取ってきた。アップした画像は、注文書の実物。
ツイッターで「制服に10万弱」とつぶやいたら、数名の方から驚きの反応があったので、内訳をご紹介、というわけである。
体操服やワイシャツの洗い替えを枚数買ったのでこの金額であるが、最小限に購入するともう少し安くなるだろう。だが、どちらにしても、学校指定の服装をするためには、6万円以上は必要となるし、シャツ類の洗い替えなしというわけにもいかない。
公立でこれってどうなの? と思うが、制服があればふだんの衣服費はぐっとおさえられるし、フォーマルも制服で代用できちゃうので、高いか安いかは考え方次第という気もする。
実際、このあたりでは、小学校の卒業式に中学の制服を着て出る、という慣習があり、めったに着ないまま小さくなっちゃうブレザーなどをわざわざ購入する必要がなくて、とても実際的である。
また、制服があれば、貧富の差が目立たない、という面もある。
上の息子も、同じ中学校を卒業しているのだが、彼が行っていたころは、黒の詰め襟の制服で、ボタンさえ取り替えれば、ほかの学校のものでも使えたのだが、ブレザー型に変更になったので、親戚などからお古をもらうには不都合になった。
若いころは、制服なんて管理の象徴ととらえていたが、実際に親になってみると、それなりに利点もあるのは確かである。だが、いつまでたっても男子はスラックス、女子はスカートというのもどうかと思うし、のど元までボタンをとめてネクタイをしめるというきゅうくつなかっこうをさせなければならない理由もわからない。
子供が減っていて生き残りに必死な私立では、デザインのすてきな制服が必須だというし、制服のない学校でも、「なんちゃって女子高生」みたいな服装で通学してくるという話も聞くし。
別に結論の出る話ではないのだが、子供といっしょに、制服のメリット・デメリットを話し合う、というのもいいかもしれない。
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Togetter(トゥギャッター) - まとめ「『アバター』を見てむかついた理由」
あー、日付を確認すると、映画を見たのは、2月11日。で、その晩ツイッターで断片的につぶやいた内容を前提に、ここを更新しようと思って、上記リンクの Togetter にまとめたのが、12日。はい、すでに月末になっています。
しかも、しばらく確認してない間に、言いたい放題のコメントがついてるし。 @y_arimさん、弁護してもらったのに放置して申し訳ない。
この映画には、とある企業が軍隊を使って、人類とは別種の文明を持つナヴィという種族を「青猿」と罵り、経済的利益のためにふみにじろうとする様が描かれる。まさに、いままでさんざん繰り返されてきた白人によるジェノサイドの再現である。
だが、主人公とその仲間は、白人ではあるが、迫害されるナヴィの側に立つ「よい白人」であり、そういう蛮行は悪玉として批判的にとらえられているのだから、別に問題ないんじゃないの? と思う人も多いことだろう。最後に勝利するのは、ナヴィの側なんだし。というか、強きをくじき弱きを助けるヒーローというのは、いくら繰り返されようとも決して古びないものである。
主人公の仲間である植物学者が、ナヴィに学校を作り、英語を教えた、という設定。もちろん、そうでなければナヴィの言葉ができない主人公は現地での意思疎通に困るから、必要な設定かもしれない。途中で主人公はナヴィの言葉を懸命に覚えようとするシーンはあるのだが、なぜかナヴィ族の恋人、ネイティリとの会話は最後まで英語。「あなたが見える」という彼らの重要なフレーズも英語で繰り返される。ネイティリの使うたどたどしい英語は、まさに「土人」「蛮人」の記号でもある。
主人公は、ナヴィ族の戦士に科せられる通過儀礼をことごとくクリアし、彼らの伝説の英雄となり、彼らを率いて「悪い白人」と戦う。彼は、もともと負傷して下半身不随となった軍人であり、「アバター」のドライバーとなるべき素養もないのに、事故死した双子の兄の代わりにその任に着いた。要するに、決して重要人物ではなく、肉体的にも精神的にも傷ついている。その彼が、別世界では最も美しく権力ある者の娘を恋人とし、英雄となれるのである。
いじめられっ子のぱっとしない主人公が、別の世界では「選ばれた者」である、というのは、『ネバーエンディングストーリー』やら『ハリー・ポッター』やら、その他枚挙に暇がないほどファンタジーの王道である。ここでも、その構造が使われているだけのように見える。
だが、わたしの目には、結局「よい白人」である主人公も、ナヴィの「女」、「物語」を、やすやすと自分のものにしてしまうことによって、ナヴィを支配することにはかわりないじゃん、としか見えなかった。搾取だろ、それって。
そしてまた、もともと侵略の手先であった主人公は、まったく悩まない。正義の人として「悪い白人」と戦うんだから、それまでのスパイ行為はすべて帳消しとなる。いや、このくらい脳天気じゃないと、ハリウッドの娯楽大作の主人公は勤まらないよなぁ、とへんなところで感心してしまった。もっとも、見ているうちは、その圧倒的な画面の迫力に押されて、主人公が頭からっぽで、ついでに痛むほどの良心も持ち合わせていないことも、それほど気にならないのであるが。
こういうわたしの見方は「杜撰なポスコロ批評」と言う、というのは はてなブックマークで知った。また、リンクした Togetter でのコメントによると「フィクションを勝手に現実問題に当てはめた的外れな非難」なのだそうである。
この映画を見て、ベトナム戦争やネイティブアメリカン迫害の歴史を連想しない人はあまりいないと思うし、制作側も当然意識しているだろう。そういう現実の背景をふまえた上で、なおかつ、現地人は現地の自然の中では有能かもしれないけど、圧倒的な白人の武力の前では、やっぱり「よい白人」たるぼくが指導してあげなくちゃね、というお気楽なストーリーが目の前で展開されてるんだから、鼻白むな、と言われても無理だ。
マジョリティの中から、マイノリティの立場に立って活動している人々の努力と葛藤を間近に見ていれば、フィクションだからといって「よい白人」の立場になんの疑問も抱かない主人公には、とても共感できない。
とんでもない悪党だったり、人格が破綻していたり、凡人にはなかなか感情移入しずらい人物を主人公にすえた小説や映画というものはいくらでもあるし、わたしとて、別に共感しなくてもそれらをフィクションとして楽しむことはできる。迫力があり美しい映像、古いSF者の心をくすぐる数々のシーン、ラブロマンス、派手なドンパチ、楽しむべき要素はそろっているのだが、わたしにはだめだった。
結局、他民族を侵略する、というテーマ自体がわたしにとって切実なものであるから、単なるフィクションとしては楽しめないのである。まさにポスコロの呪い。スピルバーグや押井守がいくら激賞しても、別に彼らの目を借りて見るわけじゃあるまいし、受け付けないものは受け付けない。
映画の感想なんてものは、対象を映画に借りただけで、結局「わたしはこう感じる」というのを言いたいだけである。映画としてよくできていれば、それが心に響くかといえば、まあ、そういう場合もあるよね、としか言えない。
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